器の大きい人、器が小さい人 ( 鼠径部 連載 7 )
こんにちは。ごきげんいかがですか?
きょうは、感情の単語を過去形に変換する人が住んでいる世界のお話しをもう少しいたしましょう。
器の大きい人、器が小さい人、のように表現することがありますが、その違いって何でしょう。
わたしは、感情の単語を現在形に変換しているか過去形に変換しているかの違いだと思っています。
わたしたちが持っている器の大きさ自体は同じなのです。
つらいことや、さみしいこと、嫌なことは、誰にでもあります。
つらいことを思いだしながら、それを、つらかったと変換した瞬間に、自分は犠牲者になります。
分析されないその記憶は、器の中に残りつづけます。
それは、自問自答中の感情の言葉でも、過去形を使う度に積み重なります。
友人や家族に愚痴を聞いてもらう時の感情の言葉でも、過去形を使う度に積み重なります。
そしてあっという間に器は犠牲者になった記憶でいっぱいになるのです。
その状態のときに、さらにつらいことが重なると、
大爆発が起こります。
そのきっかけは、ほんの些細なことかもしれません。
でも、本人にしてみると、今までの蓄積の上での怒りなのです。
傍から見ると、何でそんなことでそんなに怒るのか理解できません。
これが、いきなり人が豹変する短気のメカニズムのひとつです。
この時、器に状況を判断するための容量が残っていないなので、状況を周りが説明しても、それを冷静に受け止めることができないのです。
これに対して感情の単語を現在形に変換する人は、自問自答中の感情の言葉でも、現在形を使う度に頭が分析モードになります。
「わたしはああいうことがつらいんだよな」「わたしはこのパターンがさみしいんだよな」と言葉にするうちに、自分の弱点が明確に見えてきます。
友人や家族に愚痴を聞いてもらう時の感情の言葉でも、現在形を使う度に自分の特性が見えてきます。
分析が終わった記憶は、1行に圧縮された状態で保管されます。
そして1行にまとまった時点で仲間に助けを求めると、かなりの確率で助けてもらえます。
器の中には、自分が犠牲者になっている記憶はありません。
それでは、感情の単語を過去形変換する人と現在形変換する人の違いはどこで生まれるのでしょう。
それは、ことばの環境です。
子どもの頃、まわりの大人が感情のことばを過去形で表現していると、そのことばを覚えるのです。
では、まわりの大人が悪いのかというと、そうではありません。
おそらく、その大人が子どもの頃、まわりの大人が感情のことばを過去形で表現しているのでしょう。
聞いていないことばは、誰も使うことはできないのです。
体は、そこらへんの事情もちゃんと分かっています。だから、今まで感情のことばを過去形に変換してきたことを責めたりはしません。
ただこのままだと、SOSが相手に届かず孤独になってしまう。
そこで体は、その環境の中でも、感情のことばを現在形にさせる仕掛けをつくるのです。
つづく
※解読による症状の改善には個人差があります。
解読カイロプラクティック
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